|
|
|
ホーム>再生不良性貧血>体験談(3)
|
|
|
|
|
| |
9月に入りようやく大学病院へ転院することができました。私の担当の医者は2名いましたが、うち1名は研修医でした。転院したその日、医者から骨髄移植についての説明がありました。その説明の中には、
「骨髄移植をすれば今後子供ができなくなるだろう!!」
という大変ショックな事実を聞かされました。これは移植の前処置として行われる大量化学療法と放射線照射のいずれか一つあるいは両方が繁殖のための細胞にしばしばダメージを与えるからです。
この事実を知った後、私は両親に今すぐ帰ってくれと八つ当たりし、病院の屋上で一人で泣いていたことを今でもはっきり覚えています。
当時、「子供ができないということは自分の生きている意味(価値)が無いんじゃないか」とまで思い悩み苦しみました。日々の様々な不安やストレスにより考えることすべてがマイナス思考になっている状態だったと思います。
その後もしばらく悩みましたが、ようやくその事実を受け入れることができ骨髄移植の道を選択する決心がつきました。
骨髄移植をするにはまず白血球の型(HLA)を合わせる必要があります。兄弟で4人に1人の確率で合い、非血縁者間では数百人から数万人に1人の確率でしか合いません。
私は兄、妹の3人兄妹なので一致率は2分の1ということです。しかし、残念ながら兄妹3人とも違った型でした。さらに母も調べてみたところやはり不一致だということがわかりどん底に突き落とされた気分でした。
結局、兄妹・両親の白血球の型(HLA)が合わなかったので骨髄バンクに登録することになりましたが先生の話しによると、骨髄バンクに登録するには「できる治療をとりあえず全てやってみて最終手段としてバンク登録という形にしなければいけない」ということでした。よって骨髄移植以外のできる限りの治療を頑張ってみることになりました。
その治療方法とは、蛋白同化ステロイド療法、免疫抑制療法です。これらの治療は治療効果を判定するのに最低3ヶ月はかかるということでした。
つまり、最初に蛋白同化ステロイド療法をやり、3ヶ月経っても効果がみられなければ今度は免疫抑制療法に移り、3ヵ月後これも効果がなければ骨髄バンクに登録という流れです。
大学病院では毎日、私の担当の研修医が来てくれていましたが、採血をすれば成功するのに最低3回は針を刺され、説明や手つきはしどろもどろという感じでした。
話によると、医者は採血の実習などはやらず、実際に患者で練習するということです。どおりでへたくそだと思いましたよ。
大学病院に来てすぐに赤血球輸血、血小板輸血、それから白血球減少に対する白血球を増やすホルモンの投与が行われました。しかし、その血小板輸血で事件は起きました。
私は赤血球輸血を何度もやっていたので怖いという感覚が麻痺していました。血小板輸血もとくに心配することなく、されるがままという感じで始まりました。このとき私のそばにいたのはあの頼りになりそうもない研修医一人だったのです。
血小板輸血をしてすぐに異変が起こりました。突然気道が狭くなった感じで呼吸が苦しくなってきたのです。声を出そうにも出ず、私は研修医にこの異変を必死に知らせようともがいていました。
しかし研修医は私の状態をみて、「大丈夫、すぐに良くなるからね」とのんきなことを言い、異変に気づいてくれません。
「ふざけたこと言ってんじゃねーよ、このやろー。殺す気か!」
と思いながらベットの上の食事用のテーブルを蹴り上げ、あまりの苦しさにベットから落ちてしまいました。これでようやく研修医も異変に気づき慌ててナースステーションに走って行きました(ちなみにこのときの病室はナースステーションから一番遠い部屋でした)。
私はこのとき苦しさを通り越し、だんだん気持ちよくなっていました。不思議なことに冷静な自分がいたんですよ。「おれはこのまま死ぬんだな。おれが死んだら誰が泣いてくれるんだろう?」とか「死ぬことって思ったよりも楽なんだ」なんてことを考えながら意識が遠のいていきました。
しばらくすると医者と看護師が10人くらい慌てて走ってきて注射、点滴、血圧測定などの処置後、ベットごとナースステーションの隣の病室へ運んでいたことをもうろうとした意識の中覚えています。
ふと目が覚めると酸素マスクを付けた状態でした。
「あ〜、おれは生きているんだ」
このとき生きていることの喜びを心の底から実感し涙を流しました。
|
|
|
|
←体験談(2) 体験談(4)→ |
|
|
|
|
Copyright(C) これであなたも医の達人 All Rights Reserved. |
|